昨日も書きましたが、とても強い喪失感と孤独感と苛まれています。
とても苦しいです。
ペットロスについていろいろとWebサイトを調べたりしているのですが、『死後十日ほどで自他ともに不安やあせりになってくる人がいますが、ペットロスは、その頃がもっともしんみりとした深い悲しみに襲われて、つらい時期を迎えていることが多いものです』と書いてあるサイトもありました。
正に今の私の状態ですね。
しかし、こういう時にこそ、自分以外のことを考えられる人にならなければとも思います。

世の中には私のようにペットロスで苦しんでおられる方もいます。
コメントも頂いていますが、ネットを巡ってこのブログにたどり着いた方もおられます。
私も全く同様の行動をしていますので、気持ちが痛いほど分かります。
この寂しさや辛さ、喪失感、孤独感はどうすれば癒やされるのでしょうか。
そういう人たちと気持ちを共有できればと思います。
そういう場所も作ることができればとも思います。Webサイトでもそういうところがいくつかありますが、私にもできる事がないか考えていきたいです。

ペットと1対1の関係だと、失った時にとても辛いです。本当に辛いです。
最近読んだ猫の飼い方の本に書いてあったのですが、この辛さを少しでも和らげるために事前にその猫ちゃんを他の人に会わせてあげたりして、別な誰かと思い出を共有しておく必要があるそうです。
私はそこまで気が回りませんでした。というか、あらかじめ亡くなることを考えて思い出を共有というのは考えもつかなかったです。
でも、考えると人と人の関係もそんな風な気がします。

さらに、改めて考えると、人との関係と違って、ペットはほとんどが飼い主さんより先に亡くなってしまいます。亡くなった時まで考えて飼ってあげないといけないのかもしれません…
Webサイトでも、『ペットを飼う以上は最初から死を想定して、受け入れる準備をしておく必要があるのです』や『死別したとき、気がねなく安心して悲しみを表明できるペット友達をつくっておくことも大切です』や『人間も動物も命には必ず期限があり、その期限をあらかじめ認識できない人には動物は飼えないと思う』と書かれていたりもしました。
確かにそうかもしれません。

それに、飼い主さんがいつまでも苦しんで具合が悪くなることをペットは望んでいないでしょう。
ぶーも自分のことで私がいつまでも落ち込んでいたり、具合が悪くなっているのを望んではいないですよね、きっと。
ぶーなら私に「元気を出してリンちゃんの面倒を見てあげて」と言ってくれる気がします。

しかしながら、食事療法や通院等をもっと徹底していればよかったと後悔と自責の念は増すばかりです。
私がもう少し気遣ってあげてあげていたら、ぶーはもう少し長生きできた気がしてなりません。
正直に言うと、病院に行くとか薬とかを飲むのも嫌がるコでしたし、フードの好き嫌いもありましたから、あんまり嫌がる事はできなかったのです。
食べ物についても私なりに気は使っていたつもりでしたが、もっと配慮すればよかったです。
ぶーはマグロとかカツオなどのお刺身が好きだったので、母親がお寿司を買ってきたりして、私が食べているとすごくねだってきてほとんど奪われることがありました。
唐揚げやローストビーフやビーフジャーキーなどの肉類も好きだったので、いつもねだられてあげてしまっていました。
そんなにたくさんあげていたわけではありませんが、そういうのもよくなかったのかもしれないです。
前の日記で書いたように、いけないということも気にはしていたのですが、あげる時も食べやすいように口で咀嚼してからあげたりしていましたし、とても美味しそうに食べていたので、美味しいもの、好きなものを食べさせてあげることもぶーにとって幸せなことなのかな、とも考えていました。
せっかくこの世に生まれてきたのだから、せっかくウチにきたのだから、本当に食べてはいけないもの以外なら少しぐらい楽しみとしていいだろう、とも思っていました。
そういうことで自分を納得させていたのかもしれません。

また、最後の最後まで頑張ってしんどさダルさにぶーは耐えてましたから、最後の瞬間を看取ってあげれなかったのも後悔しています。
せめて隣で寝ていてあげればよかった。
また、そばにずっとついてあげていれば日曜日乗り切ってくれて、月曜からまた通院できたかもしれません。
それに、日曜だけ違う病院で輸液してもらうとかすればよかったのかもと思います。ただ、あの時は病院を変えたくなかったし、よくなることを願って勝手に信じていました。

もう一日早く病院に連れて行ってあげていたらよかったとも思います。病院に連れて行く前の日に、あちこちの部屋で寝ていたので、“ちょっと具合が悪そうだから明日朝一で病院に連れて行こう”と思ったのは晩でしたし、その日は次の日早く病院に行くために寝てしまったのです。
自分自身も体調が戻りかけてきたので、調子を整えたいというのもありました。
4月に診てもらった時にも大事なかったですし、これまで大きな病気をしたこともなかったので油断していたのです。
調子がよくないと気づいた時に、ぶーがちょっとでもしんどそうな感じだったら慌てて夜間病院に連れて行ってもよかったのです。
でも、“朝一で掛かり付けの病院に連れて行ってあげなければ”ということしか頭になかったです。

今となれば恐らく腎不全だったと思うのですが、様子が悪くなる前日までは排尿は普通にしていましたし、元気にしていたので完全に油断していました。
もっと頻繁に早めに病院に行っていれば、食事療法を徹底していれば、と悔やまれます。
ただ、本などを読み返すと腎不全はなかなか気づきにくく、老猫がかかりやすい病気で寿命的な事があったのも否めないようです。
そういうことも頭では分かっているのですが、今となってももっとなんとかできなかったのかと考えてしまいます。

これも以前の記事で書いたかもしれませんが、正直な心情を吐露すれば、今回乗り越えてもらって、専用のフードで食事療法しながら「これを食べないとダメだよ」とケアしてあげたい、「早くよくなってほしい」、「療養中なので静かに過ごすように気をつけよう」ということぐらいしか闘病中は考えられなかったです。闘病中も目は力強かったですし、良くなってくれることしか考えていなかった気がします。
病院の先生からは『最悪、覚悟も…』というようなニュアンスもあったので、それも頭のどこかにあったのかもしれませんが、持ち直してくれると勝手に思い込んでいたのかもしれません。

私があと一つ二つ気を使った行動することで、ぶーは危機を脱してもう少し長生きできたかもしれません。そう思うと、私はダメな飼い主だったような気がしてなりません。いえ、ダメな飼い主だったと思います。
他に思い当たるのが、急激というほどではないにしろ、ぶーは若い頃より痩せてきてましたから、それも腎不全の兆候の一つだったばすです。そういう兆候を見逃していました。毎日朝晩、元気に寄ってきてくれるからと油断して放置してしまったのです。
抱えても体重も軽く感じましたし、痩せてきているなとは感じていたのですが、年取ってきたせいかなというぐらいにしか認識できていなかったと思います。
ヨボヨボになったらきちんと介護してあげる、ということは漠然と考えていましたが。
甘えてくる時とか食事している時は元気でしたし、ふざけて引っ掻いたり噛んだり蹴ってくる時は力強かったですから、年老いたという感じになるのはもう少し先だろうと安易に考えていたのでしょう。

考えれば考えるほど、もっとなんとかできたかもしれないと考えて、私は自分が許せなく、ぶーに申し訳なくて涙が止まりません。
ぶーが亡くなって日が経っても、もっといろいろと対処してあげられたことはあったのではないかという思いがつのるばかりです。
これが責任の重さなんですね…
しかし、どんなあがいても後悔しても、時間を取り戻すことはできません。
寂しさや悲しさ、喪失感や孤独感といった辛さは、責任をあと一つ二つ果たせなかった罰なのではないかとも考えています。
とても苦しいです。
ただ、こういう苦しさや後悔も、自分の寂しさを過去の自分(といってもつい最近の自分ですが)の未熟さのせいにしていたり、過去の自分にぶつけているだけのようにも考えたりします。
そう考えると自分は卑怯な人間だという気もしますし、寂しがったりする資格もないような気もします。

けれども、なんとか立ち直らなければ、日常生活にも仕事にも影響するでしょうし、なによりリンの様子を気にかけてあげなければなりません。ぶーもリンに気遣ってくれてましたから、その優しさも無駄にしたくないです。ぶーの為にも立ち直らなければと思うのですが。
リンが安心してのんびり楽しく暮らせるように、働いて稼がなければ。私が倒れてしまうわけにはいかないですね。ぶーにも虹の橋で楽しく過ごしていてほしいですし。
なんとか、なんとか立ち直らなければ。そう頭では分かっているのですが…


決してじゃれ合うことのなかった、ぶーとリンですが、食事の時はなかよく並んでゴハンを食べていました。
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今はリンだけで食事をしています。ぶーのスペースも空けています。写真にも撮りましたが、上の写真との対比があまりにも寂しすぎるので辛くて載せることができませんでした。
今後、リンの食事シーンをリポートする時がきたら写真を掲載できるかもしれません。


今日もベッドの上にあげると寛いでくれたリンです。今日は身繕いをしながら何かを気にしています。
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